サーフィンを馬鹿にして人生を棒に振った人のお話
サーフィンこれさえあれば大丈夫新発売される商品の中から、一押し作品をセレクトして紹介。
1月7日。
この日も朝に検査薬。
1月6日はこちら
1月5日(判定日当日)はこちら
全然濃くなっていないから不安。
夜も試してしまった。
1月7日夜。
こちらが1月6日の夜。
こちらが1月5日(判定日当日)の夜。
ブログで他の人を調べると、私より全然濃い。
本当に妊娠検査薬の写真をインターネットサーフィンで調べていた。
本当に不安だった。
だけど、卵を信じて食べいた。
生卵3つ、生卵3つ。
生卵、苦しい。
けれど絶対に成功したい。
hcgが伸びますように。
あとは神頼みをしていた記憶があります。
私と不妊治療 45へつづく。
人がいる。サーフィンがある。
『無一文でアメリカ横断!』
引き続き、自伝「ネズミはドブ川へ飛び込んだ」の無料公開です。
今回は初の海外でアメリカ無一文で横断をする章。
実はYouTubeにあがってるアメリカ横断は、カメラマンと2人での2回目のもの。
この1回目のアメリカ横断があったからこそ、あの超大作が生まれたと言っても過言ではない。
向こう見ずで、行き当たりばったりの旅が様々な波乱を巻き起こします。
≪守りたいもの≫
沢山のチャレンジをするうちに、俺は、トークライブなどのイベントやラジオに出演させてもらったりと、自分の経験談を語る場を与えてもらえるようになった。
そのおかげで、出会いも広がり、自分の想いに共感してくれる仲間も増えた。
なにより、これから夢を追う人達の背中を押してあげれたことが嬉しかった。
そして、お店にはチャレンジの話が聞きたくて、刺激が欲しい人がたくさん来てくれるようになった。毎日、毎日お客さんに今までのストーリーを話したり、旅のイベントを主催したりした。
仲間が増えたことによって、日本中どこへ行っても、そこには、だいたい仲間や仲間の友達が居て、俺は支えられていた。でも、俺にはある迷いが生じていた。
安定した地盤の中、保守的になっていないだろうか。チャレンジ精神を忘れていないだろうか。自分の昔話を自慢げに話し、淡々とBARを営業し、自分の武勇伝を語る中年のおっさんのように感じた。
「お前は自分の道を突き進め。俺はもう何も言わん!」
初めは僕のやることやることに大反対だった頑固な父親も今では1番の応援者になってくれていた。
すべてが自分の存在を、反骨精神を認めてくれていた。
僕の好奇心だけが自分自身の身体から独立して、ふわふわと仲間一人もいない未開拓の地へと飛んでいく。
しかし、BARに佇む僕は好奇心と共に行動していたかつての面影はなかった。
変化し成長していく人生の中で、少し前まで渇望していたものが、いつのまにか、自分を縛りつけている。やりたいと始めたことがいつの間にか自分の中で義務になってしまった経験はないだろうか。それが俺にとって、望んで、望んでやまなかったBARだった。
それを仲間に打ち明けた。
仲間は言った。皆に刺激を与えて欲しい。動かないジョーなんてジョーじゃない。
その言葉で俺は本当の自分に気が付いた。思い出や現在のポジションにしがみつくことなく、どんどん自分を脱皮し、新しい事にゼロからチャレンジしていく。それが自分なんだと。
そう思うと同時に仲間をまだまだ信用していなかった自分にも気付いた。仲間を支えたいのではなくて、仲間に嫌われたくなかった。
そんな思いと裏腹に仲間は、俺がどこへ行こうと本気で応援してくれた。
俺がしたいことにチャレンジしている姿が最も似合っていると言ってくれた。
好奇心の向く方向、アメリカへ行こう。
そう決めた。初海外。英語も話せない。当然、友達も居ない。そんなゼロの状態で俺は何ができるのだろう。どこまでも広大で沢山の人種が入り混じり、エンターテインメントに富んだ世界一の国、アメリカ。そこで俺はどんなアメリカンドリームを描くのだろう。
守ってくれる物が何もない環境で、俺は仲間の大切さを再確認したい。仲間の大切さを知り、一人で壁にぶつかるからこそ、仲間と支え合い、刺激しあえることができる。
アメリカ大陸を横断することに決めた俺は、不自由なくそこで生活できるようにお金を貯めていた。しかし、出発日が近づくにつれて、全てゼロからチャレンジしたいと思うようになり、それを全て、ある夢を追う仲間のために使った。
いつでも苦しい時は、遠く離れた空の下に居る仲間を思い出せるために。
それは、アメリカ横断をゼロ円で決行することを意味していた。
≪出国≫
2012年11月5日。俺は、沢山の仲間と共に関西空港にいた。忍者のアニメ「ナルト」のコスチュームと今では旅の必需品になったスケートボードをカバンに詰め込んだ。ナルトのコスチュームは、路上でお金を稼ぐため。聞くところによると、アメリカでナルトが大流行しているらしい。そして、スケートボードはチャリの速さで進め、トラックに捕まれば車並みのスピードを出す。どちらも旅の必需品になるだろう。
出発の1時間前、空港には沢山の仲間が集まり、心のこもった沢山のお守りや手紙、道具を貰った。
俺は一人じゃない。
みんなが俺の背中を押してくれた。
感謝の言葉を伝えようとすると、ボロボロ涙がこぼれた。こんなに、人前で泣いたのは、始めてかも知れない。「みんな本当にありがとう。俺は、幸せや。行ってきます!」
手紙を強く握りしめ、めいっぱい叫び、搭乗ゲートをくぐった。次、皆と会うときは、アメリカを横断した後になるだろう。
そして、目を腫らしたまま飛行機へ乗った。慣れない機内食を食べて、寝て、食べて、寝た。隣には、ケニア人のおじさんが座っていた。白ワインをCAに頼んでいる。俺もおじさんの真似をして頼んでみた。すると、CAは、俺にビールを差し出した。切れの悪い、慣れない英語でお礼を言った。
14時間程の永い飛行機旅は、俺をあの頃の気持ちにさせていた。単身修行で乗り込んだ沖縄である。あれから三年経った今でも、あの頃と何ら変わらない期待と不安でいっぱいだった。飛行機は息を吐く間もなくロサンゼルスに到着した。
そして、英語のできない俺に立ちはだかる魔のポイント「入国審査」が始まった。日本の仲間から教わった通りに友達に会いに来て一緒に観光をすると伝えた。あらかじめ控えてあった泊まるつもりもないロスのユースホステルの住所も見せ、
滞在期間も教わった通りに答えた。ここまでは、スムーズだった、が、次の審査官の一言で事態は、一変した。
審査官が帰りのチケットを俺に見せてくれと要求した。俺は帰りの航空券のコピーを渡した。ここで俺は過ちを犯した。帰りの航空券と共に、旅中に出会った人に配る予定のプロフィール用紙も重なって渡してしまった。その用紙にはお金を持たずにアメリカ横断すること、路上でナルトの格好をして、お金を稼ぐこと等、普通の観光者がしないようなクレイジーなチャレンジの数々が書かれていた。
案の定、審査官が他のスタッフを呼び、ザワザワし始めた。俺は大衆の面前で腕を取られ、別室へ連行された。部屋には日本語通訳の白人のおばあちゃんがいて、俺に質問の嵐をぶつける。不幸なことに、彼女は日本語があまり話せなく、俺の言葉を理解してくれない。「スイマセン。ニホンゴ、シャベレナクテ…」と言う始末だ。じゃあ、なんで通訳やっとんねんとツッコミをいれたい気持ちを抑えた。
このままだとマジでやばい。俺は必死のボディーランゲージでアメリカの知人に会いたいとか路上活動はしない!とか英語が喋れないなりに本気の「日本語」で伝えた。
それでも、審査官の顔は険しく、俺のプロフィール用紙を見に来る他の審査官達はフンっと鼻で笑う。強制送還、この四文字が俺の頭によぎった。心臓の鼓動がさらに速くなる。笑われることよりも、みんなの期待に応えられない方が辛い。
一時間は経っただろうか。通訳のおばあちゃんが荷物の方へ案内すると言い、手招きした。遂に、駄目か。荷物と共に日本に逆戻りか。下を向いてとぼとぼ歩いた。
そして、荷物の前に着いた時、彼女はしわくちゃの顔をさらにしわくちゃにさせ口を開いた。
「イッテイイデスヨ。Have a nice trip!」
おばあちゃんが天使に見えた。
≪初めてのカルチャーショック≫
さっそく、スケボーでロスから東へ100キロ進んだ所にある街、Sanbernadinoへ向けて走り出した俺だったが、地図もお金もないため自分がどこにいるのかさえ分からない。道を聞いても分からない。相手が何を思い、何を感じているのかすら分からない。伝えたい事が伝えられない。
道で出会った全身タトゥーだらけのおっさんからなぜかサンダルを貰ったが、なぜ貰えたのか分からない。
酒を誘われたり、薬を誘われたりもしたが、何て言っているのか本当に分からない。
とりあえず、「Yeah!」と言って、その場をやり過ごす事しかできない。無知って、こんなに恐いことなのか。このままだと訳も分からず、ただ進むだけになってしまう。
季節は冬。英語も話せなくて、金もないから確実に死ぬ。アメリカへ着いて分かった情報だが、これから目指すグランドキャニオンは既に氷点下を下回り、野宿が不可能だそうだ。アメリカ中部では道路が凍結してる程らしい。
そして、アメリカの治安は、日本と比べ物にならないくらい悪い。そんな安全すぎる日本だからこそ、俺みたいなクレイジーボーイが生まれたのだろう。日本の旅と同じようにはいかないだろう。
チャレンジしてから気付く事がある。一歩踏み出したから見えた世界がある。進路変更。破天荒で無謀なチャレンジにこそ計画性が必要だ。そんなことを言いながら、いつも行く前に計画を立てない。行ってから、1歩を踏み出してから、その場で計画する。
俺はロスへ引き返し、お金を稼ぐことにした。向かった先は、ロスのダウンタウンにある日本人街「リトル東京」を目指した。沢山あるジャパニーズレストランに片端から入り、I have no money! I want to work!」を連発し、飛び込みで1週間、働かせてもらえる所を探した。20軒以上、お店を回ってみたが、住む所もなく、就労ビザもなく、長期で働くこともできない俺を置いてくれる店は1軒もなかった。
そんな中、とある寿司屋の日本人のマスターが「雇う事は、できないけど、晩飯なら奢ったる」と言ってくれ、海鮮丼をご馳走してくれた。そのマスターも若い頃にバスでアメリカ横断の旅をしたみたいだ。本当に親切でカルチャーショックを受けていた俺に勇気をくれた。
ご飯を食べた後、近くの公園のベンチの上で寝袋を被って野宿をする。寝ている間、終始、イカレタ奴らが奇声を発し、近づいてくる。そんな奴らには言葉も通じない。
中でも薬らしき物を紙コップに入れた黒人の女が俺にそれを売りつけてくる。横になっている俺に向かって何かを言いながら、首を触ろうとしてきた。僕は咄嗟に飛び起きて、声にならない声を叫んだ。すると、その黒人はそそくさと何事も無かったように去っていった。
一瞬の出来事だった。何て言ったかは、覚えていない。ここは、日本じゃない。一瞬、一瞬、気を抜いてはいけない。恐怖と共に旅特有の高揚感を俺は全身から感じていた。
その日は決して、深くは眠れなかった
、なんとか朝を迎えた。
再び、リトル東京を歩いていると、ピストルのスペシャリストである日本人男性に出会った。彼は朝食をご馳走してくれた。俺の心は感謝で満たされた。
しかし、アメリカに来てまで日本人に助けられている自分の不甲斐なさを情けなく思った。自分が動かないと何も変わらない。俺は腹を括り、路上文化のメッカ、ベニスビーチへ向かった。
≪The California style≫
ベニスビーチのあるサンタモニカ方面へとスケボーを走らせていた。途中、カフェのテラスで座っていた60代くらいのおじさんに道を聞いた。
「Could you tell me the way to the Santa Monika?」
「お前、日本人か?」
「はい。日本人です」
「おー!俺も沖縄生まれの日本人さー。お前、飯食ったか~?」
「朝に食べ…」と俺が言い終わる前に彼は、腰を上げ、動き出していた。
「ちょっと待っとけ」
ジミーと呼ばれる彼は店の中へ入って行き、俺にダブルチーズバーガーのスペシャルセットを買ってくれた。ご馳走になりながら、彼の話を聞くと、どうやらマンションを300軒程、経営しているらしい。他にもドライビングスクールや、このカフェならぬホットドッグ屋のオーナーでもあるみたいだ。
ジミーさんと話していると、台湾の留学生の女の子が子供を連れて彼の元へやって来た。その子が何やら英語で彼と話をしている。彼は100ドル札を彼女に差し出した。
どんな展開やねん。どうやら彼女は、夫に逃げられたシングルマザーみたいでジミーさんが経済的な援助をしているらしい。
自らをミリオネアと語るジミーさんの話は、真実かどうかさだかではないが、そんなことはどうでもよくて、俺は気さくな彼が大好きだった。肩書きとかブランドとか周りからの評判で人を判断したくない。だから、俺は仲良くなりたいと思った人と仲良くなるし、それを人脈とかコネとは呼ばない。
「ジミーさん、そろそろ行くわあ。色々とありがとうございました」
ジミーさん「おう。ジョー、何かあったら連絡するんだぞ」
俺はベニスビーチへ向けて再び走り始めた。
黄金色に染まる空の下、ベニスビーチに着いた。日中とは違い、静かな波の音だけが響き渡り、穏やかな時間が流れる。俺はビーチ近くのBARの前でWi-Fiを繋いで携帯電話をいじっていた。
すると、BARから綺麗なブロンドヘアーの白人女性とスティーブン・スピルバーグ似の男性が出てきて、話しかけて来た。
「ニホンジンデスカ?」
片言の日本語を話す、その人はテレビのプロデューサーらしい。奥さんはヘアメイクアップアーティストで、なんとX JAPANのヨシキのメイクも担当したことがあるらしい。
俺は彼らにBARで開催中のパーティーに招待された。中へ入ると、DJがガンガンに洋楽を掛けて、老若男女、腰をぶつけ合いダンスをしている。皆ノリノリで、ダンスも上手い。ダンスは全くできない俺はノリに任せてはしゃぎまくった。
この空間には、言葉がいらないな、そう思った。知らない人だらけだったけど、俺を一切、よそ者扱いしないフレンドリーなアメリカ人達。そんな彼らが大好きになった。奢ってもらったビールで乾杯し、最高な一夜を過ごした。アメリカは音楽と共にある、そう感じた。
そこから、マイホームのベニスビーチのベンチで就寝した。朝起きるとホームレスのトムが話しかけてきた。ライターを借りに来たみたいだ。ライターを貸した後、昨日、ジミーさんから貰った果物を分けて食べた。その間、トムはずっと何かを俺に話していたが、英語のできない俺は2割しか聞き取れなかった。トムとはベニスビーチにいる3日間、寝床が近かったせいか毎朝会った。
その日はトムに別れを告げ、日中のベニスビーチを散策した。ここはスケボーの発祥の地であり、路上パフォーマンスやサーフィンがとても盛んだ。暖かく、ほとんど雨の降らない、透き通ったカリフォルニアの青空の下で色んな人達が自分を表現している。
日本でこんなに「表現の自由」が集まった場所を俺は見たことがない。アート、音楽、スポーツが凝縮された自由でピースフルな場所だった。色んな形で「自分」を表現する人達を見て、俺も何か自分を最大限に表せる手段で僕らしい何かを表現したいと思った。
そして、俺は路上に出た。日本から持って来た書道セットで路上パフォーマンスにチャレンジ!
「Hello! I write your dreams or favorite words in Japanese.」
自分の前を通り過ぎる人に中学生レベルの英語で話しかけまくった。ほとんどの人が笑顔で通り過ぎていく中、興味を持ってくれる人もいた。そんな人には、例のプロフィール用紙を渡して、ジェスチャーで自分を猛アピールした。そうこうしている内に、横の路上でパフォーマンスをしているおっちゃんが話しかけてきた。
彼は自分のポケットから出した1ドル札を丸めて遠くへ投げて、自分のペットの犬にそれを取りに行かせて「俺の犬は金が好きなんだ」とか言いながら、面白おかしくパフォーマンスしていた。
そんな彼がなぜか俺に1ドルをくれた。彼が笑顔で、何か言ったがその英語は聞き取れなかった。
でも、あの笑顔から察すると多分、頑張れってことを言ってくれたのだろう。
「っしゃあ!Thank you very much!」
その後も俺は沢山の人に声をかけた。中には、プロフィール用紙を目の前でゴミ箱に捨てる人もいたが、そんな微々たるものは笑い流し、めげずに頑張った。
暫くすると、中東系の家族連れのお父さんが娘の名前を書いてくれと言ってきた。初めてのお客さんでかなり興奮した。まだまだ、下手やけど、かなり気持ちを込めて書いた。そのお父さんは弾ける笑顔で、ありがとう、と拙い日本語で言った。そして、2ドルを俺に差出した。俺もまた、笑顔でありがとうと言った。
日本人留学生の男性も来てくれた。彼は京都在住で定年退職し、ロスに3ヶ月語学留学に来ているみたいだ。今月いっぱいで日本に帰るらしく、また日本で会おうと約束した。六十三歳から英語を一から学び始める彼の姿は、実年齢よりも若く、目はキラキラしていた。何か新しい事を始める時に年齢なんて関係ない。タイミングはいつも今なんだ、彼は人生を背中で語っていた。
それから3日間、俺はベニスビーチで日が暮れるまで路上パフォーマンスをした。1日6ドルにも満たない稼ぎだったが、俺は沢山の人から、お金では表
られない素敵な笑顔と勇気を頂いた。
≪監禁生活!?≫
ベニスビーチで出会った韓国人男性のキムさん。仕事を探していると彼に話すと、給料は出ないが食事付きで彼の家に泊らせてくれるとのこと。その間に旅のプランでも立てたらどうかと、キムさんは提案してくれた。
早速、行くことに決めた俺は、キムさんに連れられて、北ハリウッドにある彼のビジネスハウスに向かう。プール付きのアメリカらしい広い家だった。
キムさんが言うには、もう一人、たかしという日本人がそこに住んでいるらしいのだが、彼は今、日本に帰っていて家を空けているとのことだった。だから俺は彼の部屋を使わせてもらう事になった。たかしさんが住んでいるせいか、その部屋だけではなく、家には日本の物が置かれていた。
書斎へ案内されるやいなや仕事の説明を受けた。どうやら、中国の漢方薬の元となる葉と種の枯れた部分をピンセットで取り除く検品作業のようだ。これなら英語のできない俺でもできる。
作業から6時間が経過した。まだ、終わりの合図がない。その間、キムさんは、たまに見に来ては、風のようにどこかへ行ってしまう。ディナータイム30分と言われ、日本の野菜カレーをご馳走になった。アメリカへ来て、日本食は最高だと再認識した。キムさんは俺のためにわざわざ日本食を作ってくれているのだろうか。とてもありがたい。
食べ終わると仕事へ戻った。その日は、そのまま深夜2時までぶっ続けだった。
作業中は、アメリカのポピュラーソングがヘビーローテンションで部屋に流れている。この曲、何回目だ?何度も、何度も、こんなことを考えながら、音楽と共に機械的に手を動かし続けた。
単純作業を長時間こなすことは想像以上にハードだった。
次の日は、朝、昼、夜の30分の食事タイムを除いては、朝10時~深夜2時までの13時間労働。食事はいつも日本食だった。たかしさんがキムさんに教えたのだろうか、かなりの腕前だった。いずれにしても有難かった。
その間、一歩も外へ出ていなかった。むしろ、作業机から離れることもなかった。軟禁よりも監禁の方がしっくりくる。異国の地に一人、薄暗い書斎の中、黙々と作業をしていると、寂しさがこみ上げてくる。この先の旅を思いやった。
そんな時、日本の仲間、家族を思い出し、仲間から貰った手紙の束をバックパックから取りだした。その中に1通、「泣きそうになったジョーへ」と表に書かれた手紙があった。
本当に自分が苦しい目に遭うまで、開封する気はなかった。まだ読んでいない手紙であったが、俺はそれを見る度に元気が湧いた。仲間への感謝をより一層、心に刻み俺は、作業を続けた。
ある時、キムさんは、俺に言った。
「アメリカは、お金社会だ。そんな国で英語なし、ビザなしでは、どこも働けない。沢山のメキシカン達(英語とスペイン語が話せる)は、アメリカに来て、生きるためにディッシュウォッシャーをして、働いている。娯楽なんて一切ない。ジョーは、今、生きるために働くってことを経験してるんだ。この時期、ロスでは、沢山のホームレスが寒さで死ぬ。
ダウンタウンのホームレスは、犬や猫、時には、自分の腕を食べて生きてる奴も居る。ジョーは、そんな社会の中に今居て、生きることは、この仕事で保証されている。だから、ジョーはラッキーなんだ。
もうこの時期(11月半ば)になると、野宿もダメだ。お金もない。どうやって、ニューヨークへ行くか、旅を生きて続けるかをちゃんと考えるんだ。
もし、ジョーがこれから先、旅中に死にそうになった時、どうしようもなく、困った時は俺に電話して来い!助けに行くからここに居る間、生きて、旅をするために計画を立てるんだ」
今回の旅でも僕は沢山の人に支えられていた。この仕事の経験は、俺にとって、特に自分(旅)を考える時だった。
≪旅に出るために働く≫
「When I can speak English very well, I will be back to meet you」
そう言って、キムさんに別れを告げた。
旅はいつも出会いと別れの連続。1週間も一緒にいたキムさんと別れるのは、正直寂しかった。でも、また会いに来る。今度は、英語がペラペラになってから会いに行く。そして、俺は北ハリウッドを後にした。
そこから俺は、1週間ほど前にサンタモニカへ行く途中に出会ったカフェのオーナーのジミーさんを訪ねた。
「ジミーさん!何でもするんで1週間、ここで働かせてもらえませんか?」
「今週の木曜日にアメリカで1番大きなイベントのサンクスギビングがあるんだ。その日まで、働いて行きな。その日にデッカイ七面鳥食って力付けて旅立つんだ!」
サンクスギビングデーは、アメリカではクリスマスよりもハロウィンよりも大きな祭りだ。その日に合わせて10日間、俺はジミーさんの店(ホットドッグ屋)で働けることになった。
この店には、毎日、沢山の人々が集まる。ホームレス、感染病患者、夫に逃げられて行き場を失ったシングルマザー、超気さくなメキシカン、うっとうしいくらいお喋りのゲイ、野心を持った青年、国籍、人種は様々。
あるアメリカ人は言った。「アメリカは、沢山の人種が力を合わせてつくっている国なんだ。だから、この国は、アメリカ人だけの国じゃなく、皆の国なんだ。」
沢山の人種の人がいるアメリカだからこそできるインターナショナルを通り越したコミュニティー空間が、このホットドッグ屋にはあった。
ジミーさんは、このホットドッグ屋を儲けのためとしてではなく、人々の憩いの場として運営していた。彼は社会的な地位が低く、食べる事さえままならない人には、無料で食事を与えた。道に迷った俺が、ここに辿り着いた、あの日のように。
俺は、このホットドッグ屋で働くことによって彼から沢山の「アメリカ」を学んだ。チップという制度があり、大資本主義国家であり、多様な人種で構成されている。歩いている人が皆、友達であるかのように気さくに話しかけてくるフリーダムな国家。
日本しか見たことがない俺は衝撃を受けた。このアメリカ社会をもっと知りたい。
ある日、ジミーさんは、言った。
「英語を覚えれば、もっともっと自分の世界が広がるぞ。何億人って人と話せる手段なんだ。英単語を理解すれば、解釈の幅ももっと広がる。
だから、英語は、翼なのさ。翼が生えれば、お
前はどこへだって飛んでいけるさ!」
今まで、知らなかったことが知りたいことに変わった。学ぶべきことが、学びたいことになった。と思うと同時に、日本のことをもっと知りたいと思った。
≪ホットドッグ屋さん≫
店での仕事は、材料を洗い、切り、皿洗い等の雑務。日本人スタッフのゆうたさんが仕事の手順を教えてくれた。
毎晩、仕事が終われば、ジミーさんやゆうたさんは俺をロスの色んな所へ連れて行ってくれた。
あるハリウッドのBARに行った時のこと。BARの前へ着いた時、俺はある事に気付いた。
パスポートを忘れたのだ。アメリカのお酒を扱う店は、日本よりもはるかに年齢確認が厳しい。ほとんどのお店の前に、いかついガードマンが年齢確認、荷物チェックのために立っている。そして、この日もいつものようにIDチェックをされる。
ジミーさんは、俺がパスポートを忘れたことを知っていたが、なぜか勇ましく僕を連れて、前へ進んだ。当然のごとく俺は、いかつい黒人ガードマンに引き留められた。
すると、ジミーさんは、ポケットから100ドル紙幣を何枚か取りだし、黙って、その黒人に渡した。俺を引き留める勇ましい手は、静かに降りて、俺達はそのまま店に入ることができた。
ジミーさんは、言った。
「It’s money talk!」
チップ社会の構図を俺は、目の当たりにしたのだった。
夜はジミーさんの持つマンションに泊らせていただいた。ジミーさんの店で働く人は、大概そこに住んでいる。
ある日の晩、俺は、いつものようにマンションに帰り、シャワーを浴びて、部屋でくつろいでいた。すると、店の先輩が入って来て、「ジョー、マリファナ一緒に吸わないか?」と俺に声を掛けた。
日本とは、違い、カリフォルニアでは、よくあることだ。俺は、葉っぱには、興味はないし、見たこともなかった。
しかし、その先輩が持っていた、初めて見るはずのマリファナを見て、俺は言葉を失った。
「俺がキムさんの所で検品していた、中国の漢方や……」
その時、俺の頭にキムさんと過ごした数日間の不可解な出来事がフラッシュバックした。
・韓国人にも関わらず、韓国の事を全然、話さない。
・謎のたかしという日本人の存在。
・俺が立ち入ってはいけない、いくつかの部屋。
・日本の料理がやたらに上手く、韓国料理を作る時間が凄く長い!
などなど。
そのことを先輩に洗いざらい話すと、その先輩は言った。
「なるほど。ジョー、その人は、キムさんではないよ。俺もよく知っているハンダさんだよ。マリファナの売人さ。」
俺のよく知るキムさんは、キムさんではなかった。
それでもありがとう。あの数日間の優しい笑顔は本物だった。
ついに、カリフォルニアを出る日、サンクスギビングが近づいて来た。楽しみだが、過ぎ去る日々を惜しみながら、時間の経過を見送った。しかし、その日はやってくる。
店には、沢山の人がジミーさんを訪ねてやってくる。ジミーさんは、皆に無料で七面鳥を提供した。この日は、俺の送別会でもあった。
「ジョー、お前はここで市民権を取って、残る気はないか?
来週から、学校へ通って、1から英語を学んで、俺の元でビジネスを学ばないか? 時が来たら、お前にマンションをあげてもいい。」
本当に嬉しい言葉やった。そして、俺はジミーさんを尊敬していた。でも、俺には、日本で待っているFREE☆PEACEの仲間が居る。もっと見たい世界がある。自ら、進みたい道がある。涙ながらに僕は断った。
ジミーさんはいつものように、そうか!そうか!と大きく笑いながら、俺にハットをくれた。
そして、俺は、次の街に向けて、小さなスケボーを手に取った。頭に大切なハットを乗せて。
つづく…。
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幼少期から今までの経験で気付いたことをここに詰めました。
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サーフィンをおしゃれにつかいこなす人のためのサイト
3連休はなんだかんだ初日だけ吹かなかったけど、南東スペシャルは裏切らない!!
なぜか吹く不思議な風です。
でも、最近は北風も入るし、すっかり秋ですね〜。短いな・・・。
さて、連休明けはF-HOT FINSチームとのミーティング。シャッチョーの加藤さんの声かけで、中井プロ、工藤プロとノミュニケーション
全員たまたまタブーに乗ってますが、加藤さんはJP&ニール、私と工藤プロはGAで中井プロはS2MAUIなので、お互いのフィンのチョイスは違います。
Sシリーズ、RSシリーズ、そして最新のRWSとの意見交換でした。
こういう機会を与えてくれる加藤さんには本当に感謝です。選手同士にとっても良いし、結束も強まりますね。
本当に人を束ねるトップによってまったく違うんだな〜って感じます。加藤さんとは私が20歳のプレーニング出来ないころからお世話になってます。頼もしい我らの兄ぃです
私もフィンをテストさせてもらってから直談判、中井プロも工藤プロも使わせて下さい!って言ったそうです。そんな3人が集ったF-HOT FINSチーム。今後もチームで速くなっていきたいです。
ま、フィンの話よりもシャッチョーの笑い話のほうが長いですけどね〜(笑)
そして、昨日はIT企業の社長さんとランチミーティング。
ドローンを使っていろいろと今後はウィンドサーフィンの魅力を伝えていけれたらと思います。
そして〜夜はJWA理事会へ。
昔は会議ってなに?って思ってましたが、会議に普通に出席するようになりましたね。
メンズの多いこの世界で女子がぽつり・・・ですが、頑張ります
サーフィン 関連ツイート
🐶🏄 https://t.co/u5A6qNpSkt
おっ、面白そうやん?
と思ってて
でも 黄金の国イーラとか来るし
発売日に買わなくてもいっかー
と放置してたソフトが
こんなに盛り上がってるの見ると
サーフィンにやりに行って
数年に一度のビッグウェーブに
遭遇したの… https://t.co/fr4fklWCm0